昭和五十七年三月二十八日 朝の御理解


神誡
一、信心する人の真の信心なきこと。


 祈念詞の中にあります、甲斐ある生命に目覚めしめというところがありますね。甲斐ある生命。この世に生まれてきた甲斐があったということですよね。甲斐ある生命。それに目覚めるということ。今日のここには信心する人のとありますが、信心を頂いておっても、真の道も真の信心も頂かないという、これは信心が会ってもね、云うならば、この世に生を受けた。そして生を受けた生きがいと云うものを感じきれないで終わっていくというような人は、私はこの、信心する人はと云っておられると思うですね。
 信心する人の真の信心なきこと。
 真の信心が出来れば、そこに、いわゆる生きがいもいよいよその思いも募ってくるでしょうし、有り難い生涯と云うことだけではなくて、いわゆる、この世はあの世の為にあるといわれる、そのいわば値打ちと云うかね、そこに初めていわゆる価値ある生命に目覚めたということになるのじゃないでしょうかね。
 昨日、いろいろ深刻なお届けが色々ございました中に、あるところから、電話がかかって参りました。もういよいよ行き詰まって、どうにも手も足もでらんという状態の中にね、主人がもし、死んでくれと云うなら死のうと思いますと、云うような電話がかかってきた。いわゆるもうこの世をいよいよ苦の世界根、死んだらあの世に極楽がありばっするようにね、いわゆるあの世の事が分からんと、この世の苦しみを生命を断とうとまで思ったりする人があります。
 そりゃもう本当に死んだほうがましというような、その、云うならば苦しみとその苦悩と云うものがね、本当はいよいよ甲斐ある生命に目覚めさして頂く、真、チャンスを頂いておるということにもなるのですがね、心はそこから開けてくる。 信心する人の真の信心なきこと。信心ね、これは信心がないならなおさらのことでしょう。だからこそ、ま、この世は苦の世界だ、苦の世界だともう決め込んでしまうね。真の信心を、真の生き方を身につけさせて頂いたら、いよいよ、云うなら、有り難いもったいないといういわゆる信心生活に入っていけれるんですけどね。
 それこそ苦しきのみ多かりきで終わってしまう。いわゆるこの世に生きがいというものを見出しきれなかった人達の姿でありますが、それが信心が会ってもそうなのですから、信心がないならもう、いよいよこの世は苦の世だ、苦の世だになってしまうでしょうね。信心をさせていただく喜びというね。それがいよいよ生きがいにつながりね、いわゆるこの世で有り難い。いわゆる生き甲斐のある生き方をさせてもらって、それがそのままあの世にも持っていけれるということをひとつ本気で分からなければいけません。
 真の信心なきこととおっしゃるから、どうしてもその真の信心をね、目指さなければいけませんけれども、なかなかただね、信心を続けておれば真の信心と云うことではない。そこには、真のおかげ。いわゆるそこに生き甲斐を感じさしてもらえるような生き方が心に開けてきて、初めて真の信心をするということになるのじゃないでしょうかね。
 昨日今ヨーロッパにおられます石田先生から絵はがきであのう、まあ、お便りを頂きました。中に、「和光、養素拝山」という言葉を使って色々ま、書いておられました。「和光」ま、平和の和ですね、光ね、ここで御理解を皆さんが頂いております「養素拝山」その養素拝山という御理解は皆さんがもう繰り返し頂いておられることですが、この養素拝山の上に和光を書いてある。も、今日の御理解を頂いて、本当に生き甲斐のある生き方に目覚める。
 私はここに極まるという思いが致しますね。養素拝山です。例えば普通では難儀という困ったというね、けれどもそういう時にこそ、自分の心を養う、まあ、心を養う元になるのだというのが、養素拝山ということですね。
 まあ、ここ二、三日いわれておりますようにね、成り行きそのものが神様の御働きなのだから、と信ずるということなんです。成り行きそのものが信ずるということ。成り行きそのものが神様の御働きと信ずる事ね、それを私共が、いよいよ大きく豊かにする事の願いを立てるということは、いよいよ豊かに大きなおかげを受けられるということにもなるのです。
 どうぞおかげおかげという前に、だから自分の心がいよいよ豊かに大きくなるためには、今難儀と思うておるその難儀をです、拝んで受けるような心になることです。それも、いよいよ分からせてもらうとね。それが神様のあなたに求められる修行であり、働きなのだと分かるとこまでいったとき、いよいよ生き甲斐である生命ということになるのじゃないでしょうかね。
 勿論、だからいよいよ豊かに大きなおかげを受けるということにもなるでしょうね。勿論そこにはね、石田先生が云っとられる和光とね、養素拝山、この信心に極まったと自分の心の中に、極まったものを頂いて、それに徹していく修行をさしてもらうなら、必ず和の心も光の心も生まれてくるね。
 和光と云うことは和賀心にも通じる事だと思うですね。和らぐ心。その喜ぶ心も和の心もね、生まれてくると思うんですね。もうそこに御道の信心は極まったというような頂き方をしませんとね、なかなかいわゆる養素拝山にはなってこないね。山を拝む、修行を拝むというような心が生まれてこないね。そこから実験実証されるところからね、いよいよ自分の心の豊かさも、大きく心が育っていくという事にもなってくる。その豊かに大きな心がね、極められたときに、豊かな大きなおかげも約束されるね。
 そのハハァ、こういう生き甲斐を感じる、喜びを感じれる、この心を育てる為に、この世はあるのだということになる。この世はいよいよ和賀心を目指す事のために、この世にきたんだ。その和賀心そのものが、勿論御神徳ということにもなりますね。
 ですから皆さんがどれだけの信心する人のとこう、云うとられるが、信心しておるから、いわば極楽世界に住むの、合楽世界に住むと云うことではないのですね。そういう云うなら、信心生活に真の信心生活に入らせてもろうて、自分がいよいよ和光ね、喜びに輝く心を目指しての信心ね、そういう稽古をさして頂くことに、生き甲斐を感ずる。甲斐があるね。生きがいを感ずる人は色々ありますよ。信心がなかってもね、自分の仕事なら仕事に打ち込む事に、生きがいを感じておる。もう子供が立派に育っていくということに、生きがいを感じておるというのもありましょうけれどもね、信心する人の真の信心なきことと。
 その生きがいの焦点と云うものが、ね、あの世にも持っていかれようなものが育つ、どんな子供が立派に育っても、どんなに自分の仕事が成就しても、それはあの世には持って行かれんのです。
 だから本当の生きがいと云うのは、あの世に持っていけれれるものを育っていくことのために、この世があるということにね、気付かせて頂いての信心を、私は真の信心と云う事じゃないかと思うね。
 信心する人の信心頂いておってもね、おかげは頂いておってもね、云うならば養素拝山の修行が出けないとお徳にはならん。力にはならん。あの世に持っていくものにならないね。
 この石田先生が書いておられる「和光、養素拝山」養素拝山の生き方をしておればね、和の心も光も心に頂けるという意味だと思います。そういう信心に目覚めるということ。
 まず昨日の御理解じゃないけれども、まずは自分が丁寧に御教えを行じて、それを丁寧に人に伝えていくと。まずは自分自身がそこに、生きがいある生命を、に、目覚めさしてもろうてね、こういう生き方、こういう教えによって、私の心がね、云うならば、生きがいある生命に目覚めたんだと、云うお話にならば、本当にそういう生き方がもしあるとするならね、自分も本気でそれを頂こうとする人は、沢山実はあるのじゃないでしょうかね。
 そういう手だては、もうないものと思っておる。もうこの世は苦の世だ、苦の世だと思っておる。だからそこのところをですね、まあなんて云うかね、自分さえ楽すれば良い、といったような安易な考え方になってしまうのじゃないで消化ね。
 まずは私共が丁寧に教えを行ずる。云うならば養素拝山の生き方を身につけて、自分の心に和光の心を頂いてね、そこに甲斐ある生命に目覚める時、初めてその信心頂いておる値打ちと云うかね、ただ、おかげ頂くということが、信心の値打ちじゃない。
 そういう信心に目覚めるということ、そしてそれをね、甲斐ある生命に目覚めしめということは、甲斐ある生命。こういうね、生き方になれば、こういうおかげが受けられると人にも、いわゆる目を覚まさせるだけの、云うなら働きをおこして行かなければならん。
 それが私、本当の意味においての、合楽示現活動に参画すると云うことは、そう云うことだと思うですね。本当な意味に於いてね、それにはまずは、自分が、成る程合楽に御縁を頂いたと云うことがね、その甲斐ある生命に目覚めるということだと思うですね。                  どうぞ